お父さんとあたし


「愛良ちゃんのパパって、プロボクサーの“真壁俊”なの?」
 4年生の始業式。
 隣の席になった子がそう言った。はじめて同じクラスになった子だった。
「うん、そうだよ」
と答えるあたし。最近“防衛戦”に勝ったお父さん。そのおかげでってこともないけど、時々こうしてお父さんのことを聞かれる。
「ふーん、やっぱりそうなんだ。“真壁俊”ってかっこいいよね。うちのパパとママも大ファンなんだよ。すっごいねえ…」
 笑顔で続けられる言葉も、聴き慣れたもののはずだった。なのに…なんだかちょっと気になった。






 リビングで。
 新聞を読みながらコーヒーを飲んでいるお父さん。その隣で、お母さんはお父さん相手にいろいろとお喋りをしている。
 といっても、お父さんはお母さんの言葉にそんなにたくさん返事はしない。
 お兄ちゃんに言わせると「あれほど会話になっていない会話を成立させている母さんは凄い」ということになるらしい(でも、あたしから見るとお父さんとお兄ちゃんってそういうところは似てると思う)、我が家の日常風景。
 読みかけの本を手に持って、あたしもソファに座り込む。
「愛良、お行儀悪いわよ」
 ソファのうえで足を組んで座っているあたしを見て、お母さんは笑ってそう注意してくる。
「はぁい」
とあたし。お母さんの注意に従って、足を床に下ろした。そんなあたしに、更ににっこり笑顔を見せて、お母さんは
「紅茶? それともカフェオレにする?」
と尋ねてくれた。
 いつもなら、あたしのためにキッチンへ向かってくれるお母さんにくっついて行って、いろいろお喋りするところなんだけど、今日はなんとなく所在無い。部屋から持ってきた本を読むともなしにペラペラとめくっていると
「はい、愛良。飲み頃よ」
 ちょっぴりぬるめ。あたしにとってちょうどいい、飲み頃の熱さのミルクティはちょっぴり甘め。あたしのお気に入りをお母さんはよーく知っている。
 本を膝の上に置いて、あたしはこれまたお気に入りの“テディベア”のカップを両手で包んで、ミルクティを一口すすった。
「…愛良。何かあったのか?」
 不意に、お父さんがそう言った。
「え…?」
 カサッ。
 新聞をたたむ音。お父さんは瞳に笑顔を浮かべてあたしの顔を覗き込む。それはあたしの大好きなお父さんの表情。
「何か、気になってることがあるんじゃないのか?」
 ん…。口ごもる。隠すわけじゃなくて、どういったらいいのか判らなくて。
 でもこんなときのお父さんはとっても鋭いから。もっと小さい時のようにあたしを膝の上に抱き上げて
「言ってみろ」
と言った。
「ねえ、お父さん、ボクシング好き?」
 聞くとお父さんは
「ん、そうだな」
と答えた。
 お父さんの笑顔。笑っている目の上にはバンソウコウ。この間の“防衛戦“のときのものだった。その傷もまだちょっぴり腫れているほっぺたも、試合の後お母さんが手当てをしたんだった。試合から1週間くらいたって、ようやく治ってきた”ボクシング”の跡。
「どうしてそんなこと聞くんだい、愛良?」
「んとね、だってお父さん、怪我したら痛いでしょ。殴ったり殴られたりしても痛そうなのに、なのにどうしてボクシングが好きなの?」
「難しい質問だな、それは」
お父さんはちょっと考え込んだ。
「確かに、愛良から見ると痛い思いをするボクシングを一生懸命にするお父さんは不思議なんだな。試合の前には食事の制限だってしているし、大変なところばっかり見ているもんな」
お父さんの言葉にあたしは頷く。あたしが生まれる前からボクサーだったお父さん。だから、そういういろんなことは我が家では“当然”のこととして扱われていた。
 でもな、とお父さんは続ける。
「ボクシングを始めてから、お父さんはなんだか自分の“居場所”を見つけたような気がしたんだ」
「“自分の居場所”?」
「そう。一生懸命練習していたら、嫌なこととか全部忘れられるような気がしたのもあったな。でも、本当に嬉しかったのは自分をちゃんと見てくれて、認めてくれる人がいたこと…だな」
「自分を見てくれる人?」
「そう。例えば、今だったらジムの人とか、お父さんの試合を見に来て応援してくれる人がいるよな。それに江藤のおじいちゃんとおばあちゃん、鈴世たち…みんなお父さんに“ガンバレ”って言ってくれるよな」
「うん」
「そういう人たちみんな、お父さんのことを知って、見ていてくれてるんだ」
 お父さんの言っていることはわかる。この間の“防衛戦”でもそうだった。おじいちゃんたちも、夢々ちゃんと風くんのおうちの人も、そして会場に来ていたたくさんの人もお父さんを応援してくれていた。
「そういう人たちに“ありがとう”って伝えるためには、お父さんはどうしたらいいと思う?」
「うーん…」
 あたしはちょっと考える。
「やっぱり、ボクシングの試合をがんばること…かな?」
 あたしがそう答えると、お父さんは本当に嬉しそうに頷いた。多分あたしと同じように考えていたんだと思う。
「だから、お父さんは大変なことがあってもボクシングを続けていくんだし、続けていく以上頑張らないといけないんだ」
「…うん」
 お父さんの言っていることは、あたしにもわかる。わかるけど、でもやっぱり引っかかっていることがあったから素直に頷けなくて。
 そんなあたしの顔をお父さんは覗き込む。瞳が、あたしを優しく見つめてくれる。その瞳に勇気を貰って、あたしは心の中にある言葉をお父さんにぶつけた。
「お父さんは…ボクシングとあたしたちと、どっちがいい?」
「ん……。また難しい質問だな」
とお父さん。でもさっきよりも目が笑っている。
「たとえばな、愛良。お父さんがボクシングを辞めたら何をしていると思う?」
 逆に聞かれて、あたしはちょっと返事に困る。だってあたしが生まれたときからお父さんはボクシングをしていたから。ボクシングをしていないお父さんなんて、想像できない。
「想像できないだろ」
「うん」
「そうだよな」
お父さんは笑う。
「お父さんにも、想像できないんだ。ボクシングを辞めた自分がどんなことをしているか…ってな、本当のところ。でもな」
 ポン。
 お父さん、あたしの頭をひとつ叩く。あくまでも軽く…だけど。
「ボクシングと愛良とどっちを取るかって聞かれたら、お父さんは間違いなく愛良を選ぶ。間違いなく…な。これは、愛良じゃなくて卓やお母さんでも同じことだよ」
「お父さん、本当?」
「本当だよ。俺はプロボクサー“真壁俊”より先に愛良のお父さん…だろ」
 少しは安心したか…と笑うお父さんはやっぱりあたしの気持ちをバッチリ知っていたみたい。友達に「“真壁俊”は凄い人なんだよ」って聞かされて、その人があたしの知らない人のようで、不安になっていたあたしの気持ち。
「お父さん、大好き」
 心の中がぽかぽかしてきて、それがとっても嬉しくて、あたしはお父さんに抱きついた。



 父の日が近い…というわけでもありませんが、愛良ちゃんと真壁君のお話です。
 例によって衝動的に書いた話でして・・・、何をしているときだったかな、ふと「お父さんってどうしてボクシングが好きなの?」って愛良ちゃんがふと呟きまして…。で、なんだかんだつらつらと考えていたらこんな話が出来ました。
 でも、この発言って娘が言うからかわいいんであって…恋人時代の蘭世ちゃんが言ったら一歩間違うと修羅場だよなあとか思ってしまいました。
 で、このお話を書いていてもうひとつ妄想してしまいました。よろしければそちらもご覧くださいませ。
 しかし・・・妙に饒舌だよなあ、真壁俊・・・。






           
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