心の還るところ
《1》


 腕の中で,蘭世の泣き声が続く。
 Tシャツの胸元をぬらす蘭世の涙を拭ってやることも出来ないで,俊はただしっかりと蘭世を抱きしめた。





 真壁俊と江藤蘭世が結婚してから1年近くが経っていた。
 数ヶ月前に,蘭世のお腹に新しい命が芽生えていることがわかり幸せの絶頂にいた真壁・江藤両家であったが.その周囲では蘭世の弟の鈴世をめぐる確執が生まれていた。そして今日、ついに一家の秘密――彼らの正体が魔界人であるという事実が公になってしまった。
『そんなこと関係ない』
 蘭世や俊の友人である神谷曜子や鈴世の親友である青柳幸太が力強く言いきる一方で、心無い人々が一家の家を押し寄せ取り囲み、人間界からの排他を叫んだ。皆が困惑し怒りを覚えたとき、魔界の王であり俊の弟であるアロンが現れ言った。
『江藤家は人間界から消滅させる』
 そして以前から魔界の秘密を知っていた鈴世のガールフレンドでもある市橋なるみに見送られ,真壁・江藤一家は魔界へ戻ってきたのだった。親しんできた人々すべてに生木を裂かれるような思いを残したまま。
「なるみ、なるみぃぃ!!」
ついさっきまで扉があったその大地にこぶしをたたきつけ,鈴世がそう絶叫する。
「あなた」
江藤椎羅が望里の胸に顔をうずめる。
「蘭世ちゃん、俊……」
 声もなく泣き続ける蘭世に、アロンはそれ以上言う言葉を持たない。アロンもまた、人間界には深いつながりを持つ者の1人であった。
「とりあえずみんな城へ。これからの事はそこでゆっくりと……」
 しばらくして,アロンはそう言うと皆を促して魔界城へと向かった。





「蘭世さん,調子はどう?」
「フィラさん……」
 窓辺に置いた揺り椅子に腰掛けた蘭世は,アロンの妻であるフィラを薄い笑顔を浮かべて迎えた。
「起きても大丈夫ですの、蘭世さん? まだ顔色が良くないですわよ」
未だ顔色のもどらない蘭世にフィラはそう言って,自分のために椅子を引き寄せてその傍らにこしかけた。
 あの日から数日間、蘭世は寝台の住人になっていた。体調を崩して起き上がることさえ出来なくなったのだ。環境のあまりの変化に心と体がついて来なかったのだろうとメヴィウスは言い,数日の安静を言い渡した。昨日からやっとベッドから起き上がり部屋を歩き、身の回りのことが出来るようになっていたのである。
「うん平気。ごめんなさい、心配かけて」
 言葉と裏腹に力の入らない声で蘭世はそう返事をする。
「アロンやメヴィウスさんにも迷惑かけちゃって……」
「そんな事は気になさらないで……今はお腹の赤ちゃんのことだけ考えてくださいな。それに、一番心配されているのは俊様ですもの」
「そうね」
蘭世は呟くように言って涙ぐむ。
「彼の方が私以上に辛いのに……私がこんなふうじゃだめだよね」
 そう・・・俊はやっと念願のチャンピオンにもなり、ボクサーとしての地位が確立した矢先の出来事だったのだ。
「蘭世さん」
 フィラは蘭世の前に回りこみ、見上げることの出来るように彼女の前でひざを折った。そして,スカートのひだの中にこっそりと隠していた"それ"をそっと蘭世の前に差し出す。それは,沈みがちの蘭世を元気付けたいと,ここを訪れる前にフィラ自らで準備したものであった。
「フィラさん,これ?」
「さっきつんで来たばかりのものですのよ。まだ香りがはっきりしているでしょう」
「思いが池のそばの?あの花なの?」
蘭世の問いにフィラは笑顔で頷く。それは、蘭世の結婚式のときにも持参した思い出深い花であった。光の加減で色を変えるその花は,蘭世もそしてフィラも好きな花であった。
「いい香り……」
腕に花を抱え,胸いっぱいに花の香りを吸い込んだ。そうすると心の中の屈託が解けていくような気がして,蘭世はもう一度胸いっぱいに花の香りを吸い込む。
 思い悩んでいても仕方がない。
 ふとそんな思いが心によぎる。
 私は何をなくしたというんだろう。私には彼がいてくれる。そして私たちの幸せの象徴であるこの子もいてくれるというのに……。左手でそっとお腹に触れる。確実にその存在を教えてくれる柔らかなふくらみを実感するのは,何日振りだろうか。
「フィラさん」
蘭世はフィラのほうに向き直る。
「早く元気になって,思いが池にピクニックに行きたいわ。いっぱい花をつみたい」
「蘭世さん」
 蘭世は魔界に移って始めて,自分のやりたいことを見つけたような気がした。それはフィラにとっても喜ばしいことだった。蘭世の笑顔が戻ったことを大急ぎでアロンに知らせたいとフィラはそう思った。






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